2015年11月24日

伊江島の思い出

今から38年前、
北海道で学生だった頃に初めて沖縄へ行った。

3月だったが、北海道ではまだ雪が降っては積もっていた。
東京までは列車で行って、晴海ふ頭からフェリーで那覇まで。
まる一日かかったと記憶する。

海から沖縄本島が見えたときは何故か胸が熱くなった。
初めて来たのに、南国の島に近づくにつれて異国のような気がしていた。

南側を一周して那覇の港に着いた。
船内で友達になった若者と一緒に那覇の民宿に一泊した。
「ひこばえ」という民宿で、国際通りに近かったように思うが定かではない。

翌日はテレビで有名になったステーキ屋へ行った。
付け合せも何もなくただ分厚いステーキに重湯みたいなスープとご飯だった。

翌日は那覇から司令部のあった壕辺りに行った。
観光地化していて、薬きょうで作った灰皿なんかを買ったような・・・。

次の日は万座もうからムーンビーチへ行った。
二人でナンパしようとして二人ずれの女の子に声をかけた。
大阪からきているらしく、それ以上の進展はなかった。

ビーチのホテルは高いので、近所の民宿に二人で泊まった。
翌日はまた北上して名護から本部に行った。
海洋博の跡地だがもう人もまばらで閑散としていた。

大きなホテルの先に港があって、そこから伊江島に渡った。
足がないのでレンタカーを借りた。
僕はまだ運転免許がなかったが相棒が運転した。
彼は僕より若かったがすでに免許を持っていた。
那覇ですでに気がついていたのだが、あちこちに「車は左」という標識がたっていた。

沖縄返還後すでに6年が経っていたが、それまでは車はアメリカ式の右側通行だった。
どういうわけか、走っている車のほとんどがマツダ車だった。

伊江島で借りた車もマツダの左ハンドルだった。
走りついたところがサトウキビ畑の行き止まりだった。

農夫が向こうの方で作業をしていた。
そのうち、僕らの車のタイヤを取られて動けなくなった。
その時、突然、「ブー!ブー!」という爆音が・・・。

その爆音は僕たちに向かってきた。
耳を劈くような音、音、音。

その瞬間、小型の戦闘機が僕らを狙い撃ちした。
勿論、音だけだが、怖くてしりもちをついた。
音だけではなく、僕たち目掛けて急降下。
「ブブブブ・・・。」

彼らにとっては訓練飛行だろうが・・・。
こんなことが毎日繰り返される。

戦後70年間、伊江島では途切れることなく爆音と急降下が続いている。
最近、その伊江島のアメリカ軍を増強するという。

いっそのこと、全ての米軍基地を東京湾に持ってくればいい。
ついでに、原発も一緒に。
その敷地内に内閣全ての家族が住むことを法律で定める。
国会が近くなっていいではないか。
本気でそう考える僕は間違っているだろうか?

そういえば、彼は山梨県から来ていた。
「大月変調クラブ」というロゴのはいったジャージを着ていた。
アマチュア無線の同好グループだという。
東京へ帰ったら自衛隊に入ると言っていた。
あれから彼はどうしただろうか?

僕はその後2年で大学を卒業して、その後は北海道へも沖縄へも行っていない。
彼とは多分住所の交換はしただろうが、それっきりだ。
ケイタイもメールも何も無い時代。

思えば、沖縄では雨ばかりで結局、4月に突入して新学期が始まった。
急いで帰らないといけないので、東京までは飛行機で帰ることにした。

生まれて初めて乗る飛行機。
僕はそん時すでに22歳を過ぎていたので、スカイメートには無理だった。
スカイメートとは22歳未満で空席があれば半額で乗れる制度。

なんとか、保険証の生年月日を消して書き直して、こっそりスカイメートで搭乗した。
二階席があるジャンボジェットだった。

変なことばかり思い出してしまったが・・・。

yahoo Japanの地図で伊江島を検索してみたら、意外なことが起きた。
本部のどこから伊江島へ渡るフェリーが出ていたかを確かめたくて伊江島を拡大してみてもできない???

本部のあたりは拡大できるのに伊江島は拡大できない?
伊江島には米軍基地があるからだろう。
こんなところにも米軍の圧力の手が伸びている。

秘密保護法・安保法案に始まり、辺野古に基地をアメリカ軍のために作ってさしあげる。
全額日本国民の税金で作ってさしあげるのだ。しかもその中は治外法権。
未だに日本はアメリカの植民地。
posted by ままちゃん at 14:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: